日本のエネルギーを支えた亜炭

重さ10トンの亜炭塊
重さ10トンの亜炭塊

亜炭は石炭に比べもろく崩れ易いのですが、地表近くにあり容易に採炭できました。
張州府誌には長久手(愛知県愛知郡)・高針(名古屋市名東区)地区では、既に宝暦2(1752)年に産出の記録があります。
名古屋市内では守山区、天白区、緑区でも採炭されていました。
亜炭は最盛期、愛知、岐阜、三重、滋賀、兵庫、群馬、山形、宮城、秋田、岩手県など1府14県で産出されていました。
亜炭は戦前・戦中には重要物資とされ石炭の代用燃料としてもてはやされました。昭和18(1943)年配給統制下に置かれ、昭和20(1945)年7月6日の閣議では、石炭(亜炭を含む)の増産・増送が決定され、軍も軍需工場の燃料確保、航空機燃料抽出計画を立て直属鉱山を指定しました。
戦後も亜炭は安価な燃料として流通し、昭和22(1947)年7月、配炭公団が設立され統制下に置かれますが半年後に統制は外され需要はますます伸びました。
この頃出炭のピークを迎えましたがやがて時代はエネルギー改革がおこり熱効率の悪い亜炭は嫌われ、各地の鉱山は閉鎖されていきました。

御嵩町の亜炭鉱

岐阜県御嵩町は豊富な鉱脈に恵まれ、亜炭の一大産地でした。
1869年(明治2年)に炭脈が発見されて以後、1947年(昭和22年)頃をピークに100を超える亜炭鉱が開山し、日本の重要なエネルギーを支えていました。
最盛期の昭和31(1956)年、全国生産155万トン中41万トンとほぼ4分の1を出炭し、炭鉱の町として栄えましたが、より良質なエネルギー源の台頭により、1968年(昭和43年)には全ての炭鉱が閉山しました。